陰ヨガは筋肉を緩めることで、靭帯や腱、関節に隙間を作っていく。
肉体的な緊張がある人は深いリラクゼーションによって体を緩めていくことができる。
心に緊張がある人は肉体を緩めたとき心の緊張が緩むことがある。
癒着した筋膜が緩んだとき過去の記憶がよみがえることがある。
「筋膜は過去を記憶する」
リラックスと許容範囲
先日、セルフプラクティスとして陰ヨガを受けに行った時の話。
レッスン中に私のスマートフォンが鳴った。バイブレーションに設定はしてあったものの、陰ヨガのような静かな空間で、さすがにブンブン鳴り続ける音は気になる。
一度ポーズから抜け、電源を切ろうと手に取ったとき、目に入った着信名は自分の子どもの名前だった。
「何かあったのかな」
レッスンはあと15分ほどで終わる。
どうする?
そのままにしておくこともできたけれど、私はかけ直す選択をした。
以前の私なら確実に出なかっただろう。
〜してはいけない、〜しなければならない、と以前は自分の中のルールで自分自身をがんじがらめにしていたからだ。今もまだ緩められる部分はたくさんありそうだけど、陰ヨガの練習を通して、ずいぶんルールを緩められるようになったし、他人や自分を裁く裁判官も大人しくなったと思う。
先生も快く受け入れてくれたので、私はスタジオを出て電話をかけ直すことにした。
相手は13歳の息子。
電話の内容は、頼んでいたお使いについて。
全然急用でもない…。最近の私ならイラッとしていたかもしれない。そのくらい日常の中で自分のバランスが崩れていることには気づいていた。でも1時間ほど陰ヨガをしていた私は、自分でも驚くほど穏やかに対応していて、まるで他人を見ているように自分自身を感じていた。
自分に落ち着いた状態って楽ちんだなぁ…。
そう、リラックスは許容範囲を広げてくれるのだ。
筋膜と記憶
事なきを得てスタジオに戻りポーズを再開した私は、自分が小さかった頃の記憶を思い出していた。
小学生の頃からずっと鍵っ子だった私は、家に帰って寂しくなったり、ちょっとしたことがあると、すぐに母親が務める会社に電話していた。
「おかあさんいますか?」って。
内容は大したことなくて、家にいるときに「ねぇねぇ、お母さん」と子どもが母親におしゃべりするような本当に些細なことだった。
もちろん、母が今どういう状況か、そんなことはお構いなしだ。子どもだった私は、「今」母と話したかったんだと思う。
あ、今の息子と同じだな…って、なんだか可笑しくて、ふふっと笑ってしまった。
当時は携帯電話もスマートフォンもない時代。私がかけていたのは、会社の電話だ。なんて懐の深い職場だったのだろう。
何より記憶の中の母は、私からの電話に一度も嫌な声を出したことがなかった…ということに、ふと気がついた。
きっと忙しい時もあっただろう。それでも、いつも私の話に耳を傾けて聴いてくれていた。
とても厳格な母で、窮屈に感じるところもたくさんあったけれど、別のところでは確かに愛情が深かった。
そんな記憶がふと蘇ってきて、私はとてもあたたかな数分間を過ごしていた。
肉体的な緊張は深いリラクゼーションによって緩めていくことができる。
心の緊張は肉体を緩めることで緩むことがある。
癒着した筋膜が緩んだとき過去の記憶が蘇ることがある。
セルフカウンセリングの時間
記憶はいつもその時の感情と共にある。
時に、渦巻くような感情と共に記憶に蓋がされることもある。
出てくる記憶を眺め、しまい、また引き出し、眺め、またしまい…。それはまるで、絡まった糸の玉結びを丁寧にゆるめていく作業に似ている。
そんな練習を時間をかけて繰り返す中で、いくつかの記憶が断片的に繋がったとき、それまであった記憶は形を変えて上書きされていくかもしれない。もしかすると、蓋をしたくなるような記憶は、自分の思い過ごしや妄想から生まれたことだったと、気づくこともあるかもしれない。
静かな空間で、まるでセルフカウンセリングをするかのように、各々で過ごす繊細な時間、それが「陰ヨガ」だと思う。
誰にも気づかれることなく、自分で自分を癒す時間。静かな空間の中で、今日も十人十色のドラマが繰り広げられている。